【不思議】山の不思議体験 第四話「山中での謎の視線」

山の中を歩いていて、ふとした時に誰かの視線を感じたことはないでしょうか? グループ登山のように複数人で歩いている時はなかなか気付きにくいかも、ですが、ソロで歩いている時、特に何かのきっかけがあったわけでもないのに、ふと、

あれ? 誰かに見られている?

と、視線を感じ、辺りをキョロキョロ見渡してみても、誰もいないよな〜、なんて経験はありませんか?

僕はそんな経験が何度かあります。辺りを見渡してみても誰もいません。なのでそんな時は、ただの気のせいさ、と自分に言い聞かせるようしています。じゃないと怖いですからね。

普段(山以外)の僕には、何か特別な能力なんかありません。なので当然、スプーンを曲げられたり、裏返したカードのマークをそのカードをひっくり返すことなく当てたり、なんてことは出来ません。しかし、誰かの視線を感じて、“見られている?”という感覚は、いままでに何度も経験があります。そしてかなりの確率で、本当に誰かに見られていたりします。

街の中では、“見られている?” って感じたら、実際に誰かに見られていることが多いですが、逆に山の中では、“見られている?” と感じても誰もいないことが多いですよね。何ででしょう?

山では感覚が研ぎ澄まされる?

山登りをしている人で、山の中で五感が敏感になっているのを感じたことはありませんか? 普段はほとんど気にもしていないような小さな音に敏感になったり、普段では絶対に気づかないであろう、わずかな匂いの変化に気がついたり、そんな経験はありませんか。 

では、まだ、頭の上には青空が広がっているのに、ひと雨ありそうだぞ。という、感覚はどうでしょう。これなんかは結構感じている人は多そうですよね。

僕は山を始めて数ヶ月経った時に気が付きました。まぁ、それが何なんだと言えばそうなんですが、これは僕だけでの感覚ではなさそうなんですよね。実際に他の山人に聞いたことがありますが、やはり、そう感じている人はまぁまぁいました。

では、その感覚は何なのか? この感覚はおそらく何かの専門用語で表すことが出来るのかもしれません。しかし、ここは学術用語を解説するところではないので、そんな感覚ってあるよね。という程度にとどめておきます。そもそも、僕自身そっち方面の専門家でもなんでもないので・・・。

2015年06月06日(丹沢)大山登山

大山は何度も登っている山で、(この頃は)初詣登山を謳って毎年最初に登る山でした。なので10回以上は登っている勝手知ったる山のうちのひとつです。

この日は寝坊してしまい、だいぶ遅い時間で(ヤビツ峠からの)スタートになりましたが、特に変わったこともなく、いつもと同じペースでノロノロと山頂を目指します。

道中でも特に変わったこともなく、いつものようにヘロヘロになりながら、山頂手前の表参道との合流地点の少し前に到着しました。ここは、このコース(イタツミ尾根コース)随一の絶景地点で、振り返ると(丹沢の)表尾根越しに富士山が大きく見えます。しかし、この日はガスっていて、富士山どころか表尾根さえも深いガスの中でした。

まあ、こんな日もあるよね〜。なんて自分に言い聞かせながら、あと10分ほどで着ける山頂を目指して歩き始めました。その時、ふと足元に子鹿が横たわっているのに気がつき、思わず、

「うわっ」

と声が出てしまいました。

あと二歩気が付かなかったら、間違いなくその子鹿を踏み付けていたでしょう。(以下の写真の中央付近、モザイクが掛かったところに子鹿が横たわっていました。実際にこの写真を撮った時はそこにいる・・・・・ことに気が付きませんでした)

ビックリして心臓がバクバクしているなか、落ち着いてその子鹿を見ると、よく見るまでもなく亡くなっているのが分かりました。まだ、体長60〜70cmほどの子鹿です。何があったのでしょう? 山頂直下の登山道上なので、交通事故ということはないですし、まさか猟師に撃たれたってこともないでしょう。この辺りは一年中、禁猟区のはずです。

恐らく、怪我か病気をこじらせたのでしょう。僕は何が出来るわけでもないので、心の中で「南無阿弥陀仏」を唱えて、山頂に向かいました。

山頂で食事を取り、景色を堪能(真っ白な空間を堪能しました)して、山を下り始めました。

この日の下りは、途中までは登って来た登山道と同じルートをたどります。なので、当然、先程の子鹿が横たわっていた場所も通ります。どうすることも出来ないのですが、やはりちょっとは気が重いです。じゃあ、別のルートで下ればいいじゃん! って思うけど、それも違う気もするし・・・。

モヤモヤした気持ちを引きずったまま、先程の場所までくると、子鹿はいなくなっていました。アレ? 亡くなっていたんじゃなかったのか? とも思いましたが、どう考えても、そんな事はないので、恐らく、誰かが登山道の脇、人の目につかない場所に移動させたのでしょう。もちろん、わざわざ確認なんてしません。好んで見るようなものではないでしょ。

僕は辺りに人がいないのを確認して、手を合わせて、目をつぶり、心の中で、もう一度「南無阿弥陀仏」を唱えました。

目をつぶっていたのは、ほんの1〜2秒程度だと思います。が、その目をつぶっている間に、

あれ? 誰かに見られている?

てっきり登山者が近づいてきたのだと思い、あちゃー、ちょっと恥ずかしいところを見られちゃったなぁ。と思いつつ、目を開けて辺りを見渡してみると、あれ? 誰もいないぞ?

しかし、まだ視線を感じます。

ここのルートは尾根筋に沿ってつけられているのではなく、稜線から一段下がったところにトラバース気味につけられていて、下りの時は右側が崖で、左側が山になっています。どうやら、その山側の上部から視線を感じたようで、無意識にそちらを向きました。

「ん?」

そこには鬱蒼とした薮が見えるだけで、特に気になるものは・・・

「あっ!」

よく見ると、薮の間から鹿がジッとこちらを見ています。もちろん先程の子鹿ではなく、もう少し大きいメス鹿が微動だにせずこちらを見ています。あまりにも、動かないので、剥製でも置いてあるのかと思ったくらいです。

よく見えるようにと、少し横に移動すると、その鹿は頭だけ動かしてこちらをジッと見ています。そこで気が付きました。

(あっ! さっきの子鹿のお母さんか?)

僕は改めて子鹿を探しましたが、確認することは出来ませんでした。

もう一度、母鹿を見ると、僕から視線を外し、先程子鹿が横たわっていた辺りをジッと見ていました。

どんなことがあっのかは分かりませんが、自分の子供を無くした親の気持ちは、人間だろうと、動物だろうと、そう違いはないでしょう。そう思うといたたまれない気持ちになり、僕は心の中で、その母鹿の心に1日でも早く安穏の日が訪れることを改めて祈りました。

「視線を感じる」というのは、人間だけではないんだなぁ。と感じた出来事でした。

以下が、この記事の元になった山行記です。

2015年06月13日 検見ヶ丸登山

上の日付けを見て気づいた方もいるかと思いますが、前述の鹿さんのお話の1週間後です。

検見ヶ丸への取り付き点付近にある地蔵群

その日も、僕はいつものように、ダラダラと起きて、山梨県にある道志の湯の少し奥にある駐車場に車を停めて、検見ヶ丸を目指します。あまりメジャーな山ではありませんが、検見ヶ丸は丹沢の北の端っこ辺りにあります。

検見ヶ丸までは、はっきりとした登山道もなく、地形図とニラメッコしながら進むような山ですが、地形がシンプルなので、特に迷うこともなく、無事に展望の無い山頂に到着。もちろん、そこまでに何か不思議な体験をしたり、不思議な気分になったりすることもなく、いつもの通りの山登りでした。

展望の全く無い検見ヶ丸山頂

もうちょいルートで悩むかなぁ、とも思っていましたが、順調に進んで、ほぼ予定の時間通りに、山頂に到着しました。前述の通り展望の無い山頂(ベンチ等も無い)なので、特にゆっくりすることもなく、さぁ、下山しますか! って気分で、下り始めてすぐ、というか、まだ山頂の一角と言っても良いくらいのところで、

あれ? また、視線を感じるぞ!

「今度は何だ?」

と言う気持ちで辺りを見渡してみます。

ここに来るまで、誰一人とも会ってないので、また人間じゃないのか? と思いつつ、視線の主を探します。

ん〜? 特に視線の主になるようなものはいないぞ。気のせいか・・・。

と、再び歩き出した時に、斜め前から僕を見るたくさんの目が・・・。

僕は思わず、

「うわっ!」

と、声を上げてしまいました。

たくさんの目と書いたけど、実際に何かがたくさんいたということではないです。一本の木に目のような模様がたくさん付いていて、それがジッとこちらを見ているように見えたのです。恐らく、枝が落ちた痕だと思うんですが、それにしても、ここまで目に見えるのも珍しいですね。

でも、こんなものはただの目に見える模様でしかないはずなのに、視線を感じたってことは、もしかしたら木も生き物なので、本当は人間の行いをジッと見ているのかもしれないですね。

よく、絵本とかで木を擬人化すると、大抵は古老で何世代にも渡って人間の営みを見てきたって設定になっていたりしますよね。あれって本当だったりして・・・。

僕はなんとなく、その木に手を合わせてから下山しました。

実はその後、何事もなく下山したわけではなく、この【山の不思議】シリーズの第一回目の『【不思議】山の不思議体験 第一話「呼ばれた?(恋路峠編)」リンクは以下 』に続くことになります。なんかこの時期は感覚が鋭くなっていたのかもしれませんね。

以下が、この記事の元になった山行記です。

視線を感じる先にあるのも

冒頭で

街の中では“見られている?”って感じたら、実際に誰かに見られていることが多いですが、逆に山の中では“見られている?”と感じても誰もいないことが多いですよね。何ででしょう?

と書いていますが、山の中では気が付かないだけで、実は人間以外の視線がたくさんあるのかもしれませんね。今回の話では鹿と木でしたが、本当は生き物以外でも、いわれのある岩、なぜそこにあるのかよく分からないお地蔵さん、山の神、滝、など、つまり神様が宿ると言われるようなものが、人間を見ているのかもしれませんね。昔の人ははそれを敏感に感じ取り、信仰へと変わっていったのではないでしょうか? 

“結論” 山の中では色々なモノに見られている。ってことでしょね、なので、山の中では誰も見ていないからと言って、好き勝手やってはいけませんよ。その行いは必ず何モノかに見られているのだから・・・。

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