大変申し訳ございませんでした。私、以前のブログで誤った情報を流布していました。と言ってもほとんど人は何のことか分からないと思います。まず、結論から言いますと、以前、南高尾にある謎の碑に関して何度かこのサイトで紹介していました。そして、およそ2年前の2020年9月にはその謎の碑は一部を除いて無くなってしまった、と書いていました。(以下にリンク)
しかし、今回新たに調査した結果、無くなっていたと思っていた碑はまだ存在していることを確認しました。それだけではなく、新たな謎の碑の存在を確認しました。その他にも、いくつかの新しい発見がありました。なので、今回はその最新情報をお届けします。
と、前置きはこのくらいにします。今までの記事は基本的に山行記のオマケ的な感じで謎の碑のことも取り上げていましたが、今回は山行記と謎の碑の記事を分けています。また、過去に書いたことと重複する部分も多々あります。それは、過去の記事を読まなくても、今回の記事を読めば今までの流れを理解できるようにしたからです。
今回はその2回に分けた記事の「謎の碑編」になります。「登山編」を読みたい方は以下のリンクをクリックしてください。
余談になりますが、ここまでの文章は「登山編」「謎の碑編」共にほぼ共通になっています。
ここからはそれぞれの記事のことに関して書いていきます。
出会い
まず、事の始まりとして、なぜ、僕がこの謎の碑の存在を知ったかについて書きます。
初めて僕がこの場所を知ったのは2006年12月2日でした。父親から教えてもらいました。当時僕の父親は定年退職後、高尾山〜陣馬山、南高尾の周辺を歩くのが日課にようになっていました。毎日のように歩くので、他の同じように日課のように歩いている地元の人何人かと顔見知りになったようです。その中のひとりの人から聞いたということです。その人がどのような人なのかは分かりません。ただ、その人も詳しいことは分からないようだった、ということです。
別れ?
その後、僕は数年に一度の割合でそこを訪れて、変化を確認していました。
そんな中、2020年8月10日に行った時、今まであったいくつかの碑が無くなっていることに気が付きました。あぁ〜、もうここは何らかの理由で引上てしまったんだな。と自分ひとりで納得してしまいました。それが以下のリンクの記事です。
その時、僕はもう二度とこの謎の碑の場所にくることは無いだろうと思いました。そもそも、(謎の碑が)無くなってしまったのだから、その後、どうなっているんだろう? とも思うこともなくなっていました。しかし、結局アレは何だったんだろうというモヤモヤした気持ちは残ったままでしたが・・・。
バズった?
そんな中、自分の中でも謎の碑のことを考えない日のほうが多くなったある日、たまたま見たこのサイトのアクセス記録に妙な変化があるのに気が付きました。2022年11月18日、なぜかこの日だけは普段のアクセス数の約2倍のアクセス数がありました。
一体何があったんだろう? と調べてみたら、ある特定の記事にアクセスが集中していました。
それが以下の2記事です。
南高尾の謎の碑に会いに行ってきました(2020年9月6日公開)
南高尾の謎の碑(2017年6月10日公開)
通常はそれぞれの記事は一日で数ページビューです。二桁行くことはまぁ、ほとんどありません。というか、アクセス0という日のほうが多いくらいです。しかし、この日はなぜか三桁もアクセスがありました。
一体何があったんだろう? と、色々調べてみたら、某掲示板にこの2つの記事へのリンクを貼り付けてくださった方がいるようで、その掲示板からのアクセスが大量にあったみたいです。
予定変更
僕は翌日の11月19日は(丹沢の)別の山に登るつもりだったのを急遽取りやめにし、もう二度と行くことは無いだろうと思っていた、謎の碑を再訪問することにしました。
いつもなら、謎の碑に行くには、城山湖の近くにある駐車場に車を停めて行くのですが、少し前から地権者の都合で駐車場を閉鎖してしまい、車を停める場所が無くなってしまいました。公共交通を使うという手がまったくないというわけではないですが、あまりにも不便です。なので、今回は津久井湖畔にある駐車場から峰の薬師経由で南高尾山稜に取り付くことにしました。少し距離は伸びますが、まぁ、いいっしょ。
この記事は「謎の碑」に特化しているので、山歩きの部分は以下の記事を御覧ください。今回は特別に分離しています。
謎の碑再訪
およそ2年ぶりの再訪です。山歩きの部分は前出のリンク先を読んでいただくとして、ここからは謎の碑に到着する少し前からお話を始めます。いや、その前に、以前書かれたブログから一部を抜粋します。それほど長い文章ではありませんが、ここの謎の碑が何で謎の碑なのかを端的に表していると思います。まずはこの文章を読んでから、謎の碑の謎の世界に一歩踏み出してみてください。
ちなみに一番奥の碑には「第一親王 御胞衣(おえな)」裏に「平成十八年九月六日 御誕生」真ん中の碑には「第二内親王 御胞衣」裏に「平成六年十二月二十九日 御誕生」とあります。一番手前の碑は判読不能です。ピンとくる人もいるかと思いますが、平成十八年九月六日生まれの第一親王とは、秋篠宮家の悠仁親王の事で真ん中の平成十八年九月六日生まれの第二内親王とは佳子内親王のことだと思われます。そうなると一番手前の碑には「第一内親王 御胞衣」「平成三年十月二十三日 御誕生」と書かれていて、眞子内親王のことなのか? と推測出来ます。ちなみに「えな」とは胎盤のことです。字面の通り解釈すると、ここに秋篠宮家のご子息たちが生まれた時の胎盤が埋められている? となりますが、いやいや、そんなはずはないでしょ。でも、なんでこんな所に? と謎は深まるばかりです。
林道から外れて、すぐに以前来た時(2020年8月10日)との違いに気が付きました。前回来たときは、季節の違いがあるにせよ、軽い藪こぎを余儀なくされたのに、今回はそれが全くありません。明らかに人の手が入っています。
ルート上の木も人為的に切られています。
倒木こそそのままですが、その先は。登山道? というくらいはっきりルートが付けられています。
謎の碑に到着しました。ここはあんまり変わってないかな?
この3本(1本は倒れている)は以前のままですね。
このときはまだ、これ以外の碑はすべて撤去されていると思っているので、ここの写真を数枚撮影して帰路につくつもりでした。
しかし、なんの気無しに、せっかくここまで来たんだから少しまわりも見ておこうと、ウロウロしだしたら。
あれ? 見覚えのある碑がある。
こっちにも・・・。
てっきり撤去されたと思っていた碑がまだ残っていた。前回来たとき確認したつもりだったけど、どうやら勘違いしていたみたいだ。石の碑は木の碑のすぐ近くにあると思いこんでいて、前回のときはそれほど広範囲を見て回らなかったんだと思う。つまり前回は狭い範囲だけしか確認しなかったので、見逃していたということだ。人間の記憶なんて当てにならないね・・・。
そうとなれば、今度こそ本当に撤去されないうちに物理的な調査はしておこうと思ったけど、今日はメモ用紙1枚持ってきていない。いつもはザックの雨蓋に入っている測量野帳も無い。そりゃそうだ、写真2〜3枚撮って帰るつもりだったんだから。
仕方ないので急遽iPhoneのアプリ(GoodNotes5)でメモを取った。それが左(上)の画像です。我ながらひどいもんですね。自分でも何が書いてあるのか分からん? このページの下の方でちょっとだけ見やすく書き直しています。
勘違いと分かった以上、もう少し辺りをウロウロしてみます。今自分がいる石の碑が6本あるテラスから尾根の先端方向を除くと、少し下にもテラス状の地形が見えます。ここまで来たら後悔はしたくないのでもう一段下ります。
木製の碑? がある。一見、立ち枯れの木に見えますが、元はちゃんと4面取られていたようです。間違いなく人の手が加えられています。しかし、すっかり腐って文字らしいものは一切確認出来ません。以前来たときは近くに倒れた碑のようなものがあったけど今は確認出来ませんね。
更にこの記事を書くために2006年の写真も確認したところ、ここも3本立っているのが確認できました。
さらにもう一段下にあるテラスに下ります。ここのテラスはかなり小さいです。ここには人工物は見当たりません。
この先にも尾根は続いていますが、この先は少し急になっているので、この謎の碑群の北端はこの辺りだと思います。
さて、元の木製の碑の場所に戻ろうと振り返ったら、結構高低差があったようで、斜面を上り返さなければならない。下って来るときは夢中で気が付かなかった・・・。
斜面を登り返す途中で、ふと右を見ると道がある・・・。写真では分かりづらいかもしれないけど、間違いなく道になっている。ここには何度か通っているけど、こんな道の存在は知らなかった。というか、以前来たときより間違いなく草木が切られていて見通しが良くなっている、と思う。林道から木製の碑までのルートももちろんだけど、それ以外もかなり人の手が入っているように感じる。
道があれば、それがどこに繋がっているのか知りたいと思うのは僕だけではないでしょう。というわけで、道なりに進んでみる。
10mほど進んでみた時、左上の斜面を見たらいままで見たことが無い碑があった。
斜面は柔らかくズルズル足を取られたけど、四つん這いになって這い上がって確認する。文字が書かれている「賀陽宮」とはっきり読める。いや、読めない、なんて読むんだこれ? スマホで調べようと思ったけど、圏外ではないものの、ブラウザで検索しても電波が弱くてタイムアウトになってしまう。とりあえず、調べるのは後回しにして、他の面も調べてみる。どうやら他の面には何も書かれていないと思われる。風化して見えなくなっているというより、元々何も書かれていないようだ。
帰宅後「賀陽宮」を調べてみた。
賀陽宮(かやのみや)は、1900年(明治33年)5月9日に久邇宮朝彦親王の子邦憲王を初代として創設された宮家である。朝彦親王も幕末に還俗した初めは「中川宮」を称したが、朝廷の首脳部として一会桑政権と連携していた時期に「賀陽宮」と改め宮家の列に加えられていたことがある。宮号は朝彦親王邸の榧(かや)の老木に由来するといい、これに平安時代後期の里内裏である賀陽院(高陽院)の字を当てたものと思われる。日本国憲法・現行皇室典範施行後も皇族であったがGHQの指令により1947年(昭和22年)10月14日皇籍離脱。
Wikipediaより引用
戦前まであった宮家のひとつってことだけど、この碑は戦前に建てられたのだろうか? 見る限りでは、もう少し新しそうだけど、戦後はすでに宮家ではなくなっているわけだし・・・。いや、そもそも宮家ではなくなっても、賀陽宮家の子孫は存在するはずなので、宮家ではない賀陽宮家の子孫がここを管理しているってことも考えられなくもない。そもそも、平成に入ってからも新しい碑が建っているのは事実なので、賀陽宮家が続いていて、ここを管理しているって考えは飛躍し過ぎだろうか?
いやいや、僕のような素人が考えたって無駄な行為以外のなにものでも無いでしょう。なので、次章からは、現在分かっている事実のみを整理してみます。
詳細図解説
下の画像は前述の訳の分からないメモを整理したものです。基本的に記憶を頼りに書いているので正確さは微塵もないです。だいたいこんな感じ、って思っていただけたら幸いです。
まず、各碑の紹介の前に画像の説明をします。
等高線
等高線のようなものは、大雑把な尾根の形を表していますが、もちろん、ここに標高の情報はありません。なので、線が詰まったところが急斜面になっているなんてこともありません。そもそも、なんの機材もなく等高線って書けるものなんだろうか?
テラス
グリーンの輪っかはテラス状の地形を表しています。テラス状の地形ってなんだ? と思う人もいると思うので簡単に説明すると、斜面に作った段々畑のようなものです。ただし、ここのテラスが人為的に作られたどうかは分かりません。山中のテラスに良く見られる石積みのようなものは一切確認できません。なので、個人的には自然の地形だと思います。テラスは4つあり、便宜上1,2,3,4と呼ぶことにします。これは単純に僕が確認した順番です。
謎の碑
次は赤い点です。これは、謎の碑です。現状11本(?)確認出来ています。しかし、2006年の写真を確認すると現在は無くなっている11と12も確認できます。なので、元々は13本立っていたと思われます。
謎の碑は倒れているもの、無くなっているものも含めて便宜上1〜13まで番号を振っています。これは年代順ではなく、単純に僕が確認した順番です。
郡(グループ)
11本の碑を5つの群(グループ)に分けています。何の意味があるのかは分かりませんが、碑の1〜12は3本つづ並んで立っているんですよね。なので
- A群(1〜3)
- B群(4〜6)
- C群(7〜9)
- D群(10〜12)
- E群(13)
のようになっています。これも便宜上なので特に意味は無いです。
道
詳細図の黄色い線は道だと思われる遺構です。道1は実際に歩いて確認してます。ただし、どこに繋がっているのかは未確認です。道2に関しては上から見たときに道らしいものが見えたというだけで、まだ確証は無いです。
各碑の詳細
当初は1本づつ、謎の碑に関して詳細を書いていくつもりでした。実際に途中までは書いたのですが、だんだん収集が付かなくなり、自分でも訳が分からなくなってきたので、詳細を書くのは諦めて、現状分かっていることのみ書くことにしました。
まずは下の表を見てください。群は上の詳細図に書かれたとおり、便宜上のグループ分けのことです。碑番号はそれぞれの碑に番号を振っています。故意なのか偶然なのかは分かりませんが、謎の碑は3本づつのグループに分けられています。下の表を見てもわかるように、この3本づつのグループには何らかの意図があってそうなっているようですが、その真意は分かってません。
素材はその碑が何で出来ているかっていうことです。記述1,記述2は碑に書かれている文です。?の部分は何かが書かれていそうだけど、現状は判読不可能という意味です。D群の碑のように文字の痕跡が見られないような場合は空欄になっています。メモは文字通り参考情報になっています。
また、碑番号12と13は現在ありません。しかし、2006年の写真を見ると確かに存在しているので詳細図には書き入れてあります。もしかしたら、周辺を探せば倒れた碑があるかもしれないので次回行ったときに探してみます。
郡 | 碑番号 | 素材 | 記述1 | 記述2 | メモ |
---|---|---|---|---|---|
A | 1 | 木 | ? 御胞衣 | 平成三年? | (平成3年)10月23日、 眞子内親王が誕生 |
2 | 木 | 第二内親王 御胞衣 | 平成六年十二月二十九日 御誕生 | 佳子 かこ 内親王 | |
3 | 木 | 第一親王 御胞衣 | 平成十八年九月六日 御誕生 | 悠仁 ひさひと 親王 | |
B | 4 | 石 | 第一王子 御胞衣 | ||
5 | 石 | 第一王女 御胞衣 | |||
6 | 石 | 第二王女 胞衣 | |||
C | 7 | 石 | 琴印 | 大正十五年十二月 | 大正15年12月25日、 大正天皇の崩御 |
8 | 石 | 鼓印 | 昭和二年十月? | ||
9 | 石 | 笙(印?) | 昭和四年三月二十五日 | ||
D | 10 | 木 | ? | 倒れている | |
11 | 木 | ? | |||
12 | 木 | ? | |||
E | 13 | 石 | 賀陽宮 | 読み方(かやのみや) |
以下では群ごとに簡単に解説しています。おまけで2022年の現在の写真と比較するために2006年の写真も並べています。
A群(碑番号1〜3)
A群には3本の木製の碑(奥から碑番号1、2、3)が立っています。いや、いました。現在は真ん中の碑(2)は倒れています。2006年当時は碑番号3はまだ新しく、文字もはっきり読めますよね。
B群(碑番号4〜6)
B群には石製の碑が3本あります。2006年と2022年それぞれ反対から撮影しているので、分かりにくいですが、2006年の写真の一番左が碑番号4で真ん中が碑番号5、右が碑番号6になります。2022年は反対側から撮影して、右手前が碑番号4真ん中が碑番号5,一番奥が碑番号6になります。
このB群の碑は2022年の写真の手前から「第一王子 御胞衣」「第一王女 御胞衣」「第二王女 胞衣」とあります。A群のパターンだとそれぞれの裏側には日付が入っていますが、B群はどうやら日付以外の事が書かれているようです。過去の写真を色々加工して何とか解読を試みたのですが、日付以外の事が書かれていそう、ということ以外は分かりませんでした。
C群(碑番号7〜9)
C群は背の低い石製の碑が3本あります。これも向きを逆に撮影しているので、2006年の左が碑番号7で、真ん中が碑番号8、右奥が碑番号9になります。2022年は一番手前が碑番号7、真ん中が碑番号8,一番奥の倒れているのが碑番号9になります。
ここも2022年の写真の手前から「琴印」「鼓印」「笙(印?)」と書かれていそうです。「琴印」「鼓印」と書かれているのははほぼ間違い無いようなのですが、倒れている碑にぎりぎり「笙」の文字が確認できます。なので、C群の他の碑に倣うと「笙印」となっているんじゃないかな? と推測出来そうです。でも、この「琴印」「鼓印」「笙印」って何? 調べてもよく分かりませんでした。
D群(碑番号10〜12)
D群は2022年現在は右の木に被って見ずらいけど、木製の碑が1本(碑番号10)が立っていますが、2006年の写真を見ると3本立っています。周りの木々の感じからして同一の場所なのは間違いなさそうですよね?
碑番号10はまだ立っていますが、11と12は倒れてしまったようです。よく探せば倒れた11と12が見つかるかもしれません。しかし、この3本は2006年当時から何かが書かれていたような痕跡はありませんでした。
E群(碑番号13)
E群は今回の調査で見つけました。石の碑(碑番号13)の1本だけです。他のところが3本セットなのに対して、ここだけが1本だけ独立しています。
「賀陽宮」と書いて「かやのみや」と読みます。この正面の面以外には文字が書かれていたような跡はありません。
とりあえず、今回はここまでとします。機会があればもう一度行って不確かな部分(碑に書かれた文字など)の調査を行う予定です。とにかく分からないことだらけなので、まずは現状調べられることは全て調べてみようと思っています。
正直言って、もうここには関わりたくないという気持ちもありますが、今のままだとモヤモヤし過ぎるので、もう少しモヤモヤを晴らしてここを引退しようと思っています。それまで、もう少しの間お付き合いいただけると幸いです。