【山旅】霧ヶ峰をガッツリ登山!& 諏訪観光《観光編》

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晩秋の霧ヶ峰をたっぷり楽しんで(その模様はすぐ下にある関連記事のリンクから読めます)、ホテルに1泊して翌日の諏訪観光に備えます。

今回の諏訪観光ではずっーと前から行きたいと思っていた場所に行きます。

目次

関連記事

観光

チェックイン

【17:06】チェックイン

丸一日、霧ヶ峰を堪能して、諏訪市内のビジネスホテルに到着。

部屋はこんな感じ。まぁ、普通のビジネスホテルですね。

今日の夕食。本当はせっかくなんで美味しいものでも食べに行きたいのですが、こんなご時世ですので、コンビニ弁当を買ってホテルに籠もります。

まぁ、カップ麺とおにぎりは今日の昼食として食べるつもりだったけど、結局食べられなかったので、夕食に化けました。

二日目(2020年11月22日)起床

【06:27】起床

起床。

今日は諏訪市内の観光、とはいっても半日だけなので一部分のみですが観光します。

【06:58】朝食

朝食。

あっ! おかず取りそこねた・・・。というかバイキング形式で列に並んで順番に取って行くんですが、まだ先に美味しいものがあるだろうと進んでいたら、おかずコーナーが終わった。再び列に並ぶのも面倒なのでこんな状態です。まぁ、納豆があれば何でもいいんですけどね・・・。

チェックアウト

【08:50】チェックアウト

8時にはチェックアウトしようと思っていたけど、結局この時間に・・・。

まずはホテルから車で15分くらいのところにある立石公園に向かいます。

立石公園

【09:16】立石公園

立石公園と聞いてピンとくる人は少ないと思いますが、映画『君の名は。』に出てくる糸守湖に似ているとして聖地になっているところですね。ホテルからも近かったし、ちょっと寄ってみました。なるほど、たしかに似ていますね。

次は諏訪大社に向かいます。上社は以前行ったことがあるので、今回は下社の2社をまわります。

諏訪大社 下社秋宮

【10:05】諏訪大社 下社秋宮

まずは下社秋宮です。この日は参拝者は多く、駐車場には奥の方にかろうじて停められた。

本来は参拝してから御朱印を頂くのだが、ここは先に御朱印帳を預けて番号札を頂き、参拝している間に記帳していただくシステムのようだ。まぁ、その方が効率的だよね〜。もっとも、ここで効率の話をするものねぇ〜

神楽殿。

拝殿。

人が多い割にはそれほど並ばずにお参りが出来た。

下社秋宮でのお参りを済ませて、御朱印帳を回収して、今回の本命である下社春宮に(車で)向かおうとたら、案内板で下社秋宮から下社春宮までは中山道でつながっていることを知った。考えてみれば当たり前だけど、今までは考えたこともなかった。しかも、距離も1kmとちょっとらしい。案外近いじゃん。ということで歩くことにした。

『甲州街道・中山道合流之地』

なるほどここで甲州街道と中山道が合流するのか、つまりここが甲州街道の終点ということだ。そうか、ここにあったんだ。知らんかった・・・。

まぁ、宿場なので本陣もあるでしょう。当時のままなのだろうか?

入場料を払えば中に入れるらしいけど、時間が無いので今回はパス。

下記参照

下諏訪町文化財

史跡 本陣遺構

江戸時代中山道の大きな宿場として殷盛(いんせい)をうたわれた下諏訪宿の問屋兼本陣の大半がそのままここに残っている。維新前は公卿や大名たちの休憩所になり、文久元年(一八六一)十一月には関東へ御降嫁の和宮さまのお泊所になり明治十三年六月二十四日明治天皇ご巡幸のときにはお小休所になった。

昭和四十七年二月二十三日指定

下諏訪町教育委員会

国道142号線との分岐。国道は道なりに緩やかに右にカーブしている、だけど、中山道はまっすぐ続いている。

国道との分岐から、しばらくは下っている。宿場内にこんな高低差があるのか?

ずっと、チョロチョロ出ているので触ってみたら、温かかった。

旦過の湯

もともと旦過の湯は慈雲禅寺の修行僧の寮にあった野天風呂でした 下諏訪のほかの湯よりも高温で傷や皮膚病にも効果があると言われています 今でも旦過の湯の高温湯を好み町内外から多くの人が訪れます

またかつては朝夕に天秤棒を担いだ人人々で賑わいました ここから湯が自由に汲めるようになったため給湯器などない時代はもとより今も家事炊事などに使われ大変重宝されています

ん?蔵がある。詳細は下記。

七曜星社(しちようせいしゃ)蔵へようこそ

この蔵は、今から124年前の明治27年に製糸場の一角に建てられたものです。蔵を立てた人物は、当時この土地で製糸業を営みながら、生糸の共同出荷組合「七曜星社」の社員を務めていた井上善次郎です。
 井上は明治18年からこの土地で「井上善次郎製糸場」を営んでおり、この蔵がつくられたころには下諏訪で2番目に大きい122釜(釜数は繭を煮て糸を繰り出すための釜の数であり、ふつう繰糸者数を示す)の製糸業に発展していました。
その後明治32年、井上の製糸場は製糸業大手の「片倉組」に買収され、片倉組の6番目の工場として「⑥(まるろく)製糸場」として昭和18頃まで大規模な製糸場として操業されていました。
 戦後、製糸業が衰退したのちは、戦後の諏訪の基幹産業である精密業が進出し、昭和30年に八州光学工業株式会社(ヤシカ)、そして昭和48年に現在の武藤工業株式会社へと移り変わってきました。
 そうした下諏訪の発展の歴史を120年以上見つめてきたのがこの七曜星社蔵です。

この蔵は、今から124年前の明治27年に製糸場の一角に建てられたものです。蔵を立てた人物は、当時この土地で製糸業を営みながら、生糸の共同出荷組合「七曜星社」の社員を務めていた井上善次郎です。
 井上は明治18年からこの土地で「井上善次郎製糸場」を営んでおり、この蔵がつくられたころには下諏訪で2番目に大きい122釜(釜数は繭を煮て糸を繰り出すための釜の数であり、ふつう繰糸者数を示す)の製糸業に発展していました。
その後明治32年、井上の製糸場は製糸業大手の「片倉組」に買収され、片倉組の6番目の工場として「⑥(まるろく)製糸場」として昭和18頃まで大規模な製糸場として操業されていました。
 戦後、製糸業が衰退したのちは、戦後の諏訪の基幹産業である精密業が進出し、昭和30年に八州光学工業株式会社(ヤシカ)、そして昭和48年に現在の武藤工業株式会社へと移り変わってきました。
 そうした下諏訪の発展の歴史を120年以上見つめてきたのがこの七曜星社蔵です。

中は資料館みたいになっていました。

諏訪大社 下社春宮

【10:40】諏訪大社 下社春宮

下社春宮到着。のんびり歩いても秋宮から30分は掛からない。車で移動しなくて正解だった。とは言うものの、中山道上にもう少し昔の風情が残っているといいんだけどなぁ。

拝殿。

ここも秋宮と同じで、先に御朱印帳を預けて、番号札を貰い、参拝する。

参拝を済ませて、この旅1番の目的地に向かう。

春宮の脇から一度出て、本殿の裏手を流れている赤い橋を渡る。

もう1つ赤い橋を渡り、すぐを右に曲がり道なりに進むと、突き当たりに彼は座っていた。

万治の石仏

【10:49】万治の石仏

おおおおお〜。これか! 写真ではざんざん見ていて、いつかは本物が見たいと思っていたんだよね。

顔のアップ。なかなかの男前だね。一見アフリカ系にも見えるけど、日本人でもこんな顔の人っているよね。

身体の模様のアップ。模様は全面にしか無く、手が座禅を組んだ時の様になっていて、左胸の位置に卍・・・じゃない45度傾いていたらまんまハーケンクロイツじゃん。何だコレは?

真横から見るとこんな感じ。異様としか言いようがない。

以前、新田次郎の小説『鷲が峰物語』を読んで、何となく神奈川県にある鐘ヶ嶽という山の中腹にある石仏(下に画像あり)と、この『万治の石仏』のイメージが重なってしかたなかった。なので、一度本物を見てみたいと思っていたけど、やっと本物を見られた!

想像していた以上に異様だった。造形の異様さもあるけど、まず、なぜ此処に? という疑問がある。諏訪大社の下社春宮のすぐ裏手にあるのだけど、どちらが先にあったとしても、この2つの関係性がよく分からない。

2018年01月20日撮影

神奈川県の東丹沢にある鐘ケ嶽の中腹にある謎の石仏。

ふむふむ、なるほど、始めに諏訪大社があって、そこに鳥居を奉納するのにたまたま近所にあった大岩(まだ、頭は乗っていない)を利用しようとノミを入れたら、血が出たので、「やべっ!」となって、使うのを辞めた。そしたら、この大岩が良い石の場所を教えてくれたので、頭を乗っけて祀ったってことですか。

万治の石仏と伝説


南無阿弥陀仏万治三年(一六六〇)十一月一日
願主明誉浄光心誉廣春

伝説によると諏訪大社下社(春宮)に石の大鳥居を造る時この石を材料にしようとノミを入れたところ傷口から血が流れ出したので、石工達は恐れをなし仕事をやめた(ミミの跡は現在でも残っている)その夜石工の夢枕に上原山(茅野市)に良い石材があると告げられ果たしてそこに良材を見つける事ができ、鳥居は完成したというのである。石工達は、この石に阿弥陀如来をまつって記念とした。尚、この地籍はこの石仏にちなんで古くから下諏訪町字石仏となっている。

下諏訪町

これは完全に後付けですね。

観光協会と商工会議所が提唱する

「万治の石仏」お参りの仕方

一、正面で一礼し、手を合わせて
「よろずおさまりますように」
と心で念じる。

二、石仏の周りを願い事を心で唱えながら時計回りに三周する。

三、正面に戻り
「よろずおさめました」
と唱えてから一礼する。

(春宮ともゆかりのある石仏です春宮へもお参り下さい。)

下諏訪観光協会
下諏訪商工会議所

下記参照。

万治の石仏

明暦三年 諏訪高島藩主諏訪忠晴が諏訪大社下社春宮に石の鳥居を寄進しようとしました この仕事を請け負った石工がこの地にあった大きな石を加工しようとノミを入れたところ 石から血が流れ出しました 驚いた石工は鳥居を造ることをやめ この不思議な石に阿弥陀如来像を刻み 建立したと伝えられています
万治の石仏は その名のとおり「万(よろす)のことが治(おさまる)」万治を「ばんじ」と読み 物事をばんじまるく治めて願いを聞いてくれるありがたい石仏として 広く人々の信仰を集めています
大きな自然石にちんまりと首が乗っているアンバランスな佇まいとユーモラスな表情が特徴的 日本が誇る芸術家 岡本太郎も万治の石仏を愛して止まず この石仏を拝むために下諏訪を何度も訪れました

なんか見たことのある字体だなと、思ったら、岡本太郎の書でした。

岡本太郎もお気に入りってことですか・・・。


峡の田に座して
石佛のどかなり 正人

万治三年(一六六〇年)敬虔な心の石工たちに刻まれてから村人たちに阿弥陀様と親しみ崇められて来たが、近年岡本太郎先生にその特異な石佛としても存在が評価され世の注目を浴びている

「万治の石仏」
揮毫 岡本太郎画伯

昭和五十三年四月
下諏訪観光協会 建立

先程預けた御朱印帳を回収するために、一度春宮に戻ります。

写真は神楽殿です。

さて、秋宮に戻ろうと社を出たら、正面に何やら変わったものが見えた。

右奥に見える鳥居が上の写真の鳥居です。鳥居を出て100m強は離れていそうだけど、太鼓橋のようなものがある。もちろん下に川は無い。

正面に解説板のようなものが見えるので、近くに行ってみる。

諏訪大社下社春宮下馬橋

下諏訪町指定文化財 昭和四十八年六月二十六日

この橋は春宮大門通りの中央に位置する。御手洗川にかけられた屋根付きの反橋です。
 昔、春宮参拝の折には、ここで下乗下馬しなくてはならず、殿様でも駕籠や馬から下りなければならない場所であったため、下馬橋の名がつきました。その形から俗に太鼓橋とも呼ばれます。現在でも年に二度の遷座祭の行列の内、神輿だけがこの橋を通ることができます。
 梁行一・八間(三・二五メートル)、桁行五・五(九・九五メートル)、平面積三十二・三平方メートル、棟高五・三五メートル、柱は二〇センチメートル角で、三センチメートルほどの面がとってあります。
 神社の記録によれば元文年間(一七六三〜一七四〇)の改修と見られ、諏訪大社の中でも最も古い建築で宮大工三井伝左衛門の作と言われています。天正六年(一五七八)の造宮帳にも見られ、古い様式が忠実に伝えられています。
 屋根は本来檜皮葺でしたが昭和三十五年(一九六〇)ころ銅板葺に改修され、損傷した橋の踏み板も取り替えられました。

信濃國一之宮 諏訪大社
下諏訪町教育委員会

そろそろ時間も時間だし戻ろう。と来た道を戻ると、来る時には気がつかなかったモノが目に入った。

ん? 武田信玄? 

この石?

マジっすか? この石を触っておけばコロナも跳ね返してくれるかな? ペタペタ。

矢除石

武田信玄は、慈雲寺中興の祖と言われる天桂上人を師とも仰いでおり、戦場へ赴くときに慈雲寺に立ち寄り天桂上人に戦勝の教えを請いました。
 上人は、境内の大きな石の上に立って「私を弓で射てみよ」と至近の距離から射かけさせたところ矢はすべて岩ではねかえされて上人には一本の矢もあたりません。不思議に思った信玄が尋ねてみると「この石には矢除けの霊力がある」とのことでした。
 信玄は、この念力がこもった矢除札を受け勇躍戦場に向かったという言い伝えのある石です。

下諏訪観光協会

今はただの駐車場になっとる・・・。

フィンランド・ミッション 宣教発祥の地

明治38年7月 フィンランドの女性宣教師エステリ・クルヴィネン(Esteri Kurvinen) シィーリ・ウーシィタロ(Siiri Uusitalo)の二人による日本伝道がこの地より始められた

秋宮に戻って来た。

昼食

【11:43】昼食

手近で一番近いお店に入る。とろろ蕎麦を頼んだんだけど、なんかイメージと違うモノが出で来た。

イメージとしてはお蕎麦の上にあのフワフワなトロロが掛かっているんだと思ったけど、なんか硬い。あれ? さつま揚げが乗っているの? と思ってしまった。写真では分かりづらいけど、白っぽい硬いモノが乗っている。それを崩してみると、なるほど中にとろろが入っている。ん? とろろを揚げているのか?

正面の鳥居のすぐ前にある。

帰宅

【12:00】帰宅

ちょうど12時になったので、帰路に着く。この時間なら渋滞にハマることはないだろう。


僕は基本的に旅に行くのに過度な下調べはしません。それは行き当たりばったりの出会いや発見を大事にしたいからです。しかし、これも良し悪しなんですよね。

自分が歩いたすぐそばに、面白そうな遺跡や興味のある史跡があったのにかかわらず、気が付かないで通り過ぎていることが結構あります。

特に京都なんかは、もうチョット歩けば、歴史的な史跡がたくさんあります。帰宅後に調べて、あれ? あそこを曲がっていればあの歴史の舞台だったのにぃ〜、とか、アレ? 気が付かずに池田屋の前を通っていたんじゃん、なんてことはザラです。

しかし、下調べをしっかりしてしまうと、それをすればするほど、移動が点と点を繋ぐだけの、まるでソロ修学旅行のようになってしまって、新たな発見が少なくなるんですよね。

そもそも、旅に期間があるのがいかんのですよ。無期限な旅が出来ればいいんでしょうが、そうそう、そんなことは出来ませんよね。なので、限られた期間で満足度の高い旅にするのはどうすれば良いのか? それは、これからの課題ですね。

さぁ、次の『旅』は何処だ!

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