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今回は、山行というより歴史探訪という感じだった。
この山の下の道は割りと良く通る道だったのでここは気になっていたのだが、なかなか登る機会が無かったが、今回意を決して(?)登ることにした。しかし、ここのコースがこれほどの史跡があるとは思わなかった。そんなわけで、結構寄り道の多い山行となった。
山行データ
山行日 | 2006年02月05日(日) | ||
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コース | (スタート)中津川 愛川橋下川原~馬渡橋~三増合戦場~旗立松~富士居山・向山・大峰登山口~富士居山~向山~大峰~大峰・向山・富士居山登山口~日向橋~中津川 愛川橋下川原(ゴール) | ||
山 名 | 富士居山(253m) 向山(375m) 大峰(335m) | タ グ | |
山 域 | 丹沢エリア | 累積標高 | (+)850m |
歩行距離 | 12.683km | 所要時間 | 03時間50分 |
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山行記
【09時18分】 |
中津川の河原に車を停めて出発です。 今日は珍しく、河原には誰もいませんでした。夏なら釣り人やキャンプをしてる人がいっぱいいるのに・・・。 |
【09時20分】 |
スタートしてしばらくは、車道歩きです。 |
【09時26分】 |
左手に今日縦走する山々が見えます。ちょっとワクワク。 |
【09時27分】 |
トンネルをくぐって・・・ |
【09時33分】 |
・・・少し歩くと、馬渡橋です。ここを渡って・・・ |
【09時34分】 |
本来なら右側の車道を進むんですが、左側に歩行者用の道があり、少しショートカット出来そうなのでこっちを進む。 |
【09時35分】 |
やっぱ、ショートカットできた。距離にして100メートル強は得した! |
【09時38分】 |
田代城址。今は中学校になっています。 |
田代城址〈たしろじょうし〉
田代城は室町時代の山城で、自然の地形をそのまま要塞とした武士の居館であった。
築城の年月は不詳。城域は二三、三〇〇平方メートルほどの広さをみち、南の方を表口としていた。
永禄十二年(一五六九)十月、武田信玄小田原攻めのおりに、この城は落城したと伝えられる。
城址には石塁跡と守護の八幡社があり仕置場、うまやなどの地名を残している。
昭和五十年十二月
愛川町教育委員会
【09時43分】 |
なにやら古そうな道標が・・・。 |
【09時43分】 |
道標解説。以下参照。 |
田代 上原
道標この道は、かつての甲州みちであった。厚木市上荻野の打越〈おっこし〉から、当町の海底〈おぞこ〉を経て、中津川をわたり、関場坂からここに至り、それから志田峠を越え、津久井の鼠坂〈ねんざか〉の関所を過ぎて吉野宿へと通じる、小田原から甲州への通路であった。
道標には『甲州道中』『右よしのねんさか道』とあり、江戸中期ごろの建立とされている。
また、近世には、領主の使臣が村むらを巡視する道すじて(で?)あったことから『巡見道〈じゅんけんみち〉とも呼ばれ、ほかに、『津久井道』『志田道』の名もあった。
昭和五十九年二月
愛川町教育委員会
【09時45分】 |
道の右側に古い石仏群が・・・。上原の庚申塔です。庚申塔ってあちらこちらでよく見るけど何なんだ? |
【09時45分】 |
上原の庚申塔解説。以下参照。 |
上原の庚申塔
愛川城指定文化財田代上原の庚申塔は、数ある町内の庚申塔の中でも最も古く、寛文八年(一六六八)の造立である。
碑面には、神像とも仏像ともとれる珍しい異形像が浮彫されており、初期庚申塔の一形態を示している。下部には三猿が刻され『相州愛光郡上川入田代村』とある。
庚申とは干支のうち、庚(かのえ)ろ申(さる)の組み合わさった日で、この日を特別な日として信仰行事が行われていた。これを庚申侍といい、塔を建てる習慣があった。
昭和五十七年三月一日
愛川町教育委員会
【09時45分】 |
上原の庚申塔の向かいに今日登る富士居山が良く見える。 |
【09時47分】 |
今度は胴塚なる物があった。詳細は以下参照。 |
胴塚
永禄十二(一五六九)年十月、当町三増の原で行われた「三増合戦」は、甲州の武田、小田原の北条両軍が、力を尽くしての戦いだったようで、ともに多くの戦死者が出た。
そのおり、討ち取られた首級は、ここから一五〇メートルほど上手の土手のうえに葬られ「首塚」としてまつられているが、首級を除いた遺骸は、すぐ下の志田沢の右岸わきに埋葬され、塚を築いてそのしるしとした。
この地では、それを「首塚」と呼び、三増合戦にゆかりのひとつとして今に伝えている。
平成七年三月
愛川町教育委員会
【09時48分】 |
上の標識の後ろを見てみる。たしかに下の方に沢が流れて入れるが、塚らしいものは発見出来ず。 |
【09時48分】 |
おっ! 映画『八墓村』にこんなカット無かったっけ? |
【09時49分】 |
胴の次は首塚です。将門か? 詳細は以下参照。 |
首塚
不動明王を祀る小高い所を首塚という。宝永三年(一七〇六)建立の供養塔がある。
このあたりは、三増合戦(一五六九)のおり、志田沢沿いに下ってきた武田方の山県遊軍が、北条軍の虚をつき背後から討って出て、それまで敗色の濃かった武田方を一挙に勝利に導くきっかけをつくったところという。
この戦いのあと、戦死者の首を葬ったといわれるのが首塚であり、道をへだてた森の中には胴を葬ったという胴塚がある。
なお、三増合戦での死者は北条方三二六九人、武田方九〇〇人と伝えられる。
愛川町教育委員会
【09時50分】 |
上の写真の標識の横にある階段を上がると、なにやら不動明王が祭られています。 |
【09時50分】 |
上の写真の右手前には古い石塔があります。 |
【09時56分】 |
三増合戦場です。ここでその昔合戦があったそうですが、地理的になんでここで? と思ってしまいます。 |
【09時57分】 |
三増合戦場解説。詳細は以下。 |
三増〈みませ〉合戦のあらまし
永禄十二(一五六九)年十月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、二万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康〈ほうじょううじやす〉らを攻め、その帰り道に三増峠をえらんだ。
これを察した氏康は、息子の氏照〈うじてる〉、氏邦〈うじくに〉、娘の夫綱成〈つなしげ〉らを初めとする二万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが、武田軍は、半原の大地上に移り態勢をととのえようとした。
信玄は、その間に三増峠のふもと桶尻〈おけじり〉の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定〈おばたのぶさだ〉を津久井の長竹に行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また、山県昌影〈やまがたまさかげ〉の一隊を韮尾根〈にろうね〉に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種〈あさりのぶたね〉は、北条軍の鉄砲にうたれて戦死した。
北条氏康、氏正〈うじまさ〉の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや。すぐに兵をまとめ、反畑〈そりはた〉(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式をとりおこない、甲府へ引きあげたという。
平成三年三月
愛川町教育委員会
【09時58分】 |
現在の三増合戦場跡です。広いと言えば広いですが、なんか戦いにくそうですね。 樹木や建物は昔と大きく変わっていると思いますが、地形はそんなに大きくは変わっていないよね・・・。ホントにここで戦ったのか? |
【09時58分】 |
鎮魂の為の碑があります。ナム~。 |
志田南遺跡出土遺物について
平成十年正月五日、ここから東へ百三十メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は、筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では、「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。
平成十二年十月二十二
愛川町教育委員会
【10時01分】 |
三増合戦場の脇から旗立松への進みます。 |
【10時04分】 |
しばらく行ってここをY字路を左へ。 |
【10時06分】 |
突き当たりをまたまた左へ。 |
【10時12分】 |
しばらく進むと右手にゴルフ場の入り口が、、、でも旗立松への標識はゴルフ場の中を指しているので、ガシガシ進む。 |
【10時12分】 |
ゴルフ場の入り口に志田峠の解説がありました。詳細は以下。 |
志田峠
志田峠は志田山塊の峰上を三分した西端にかかる峠で愛川町田代から志田沢に沿ってのぼり、津久井町韮尾根にぬける道である。かつては、切通し越え、志田峠越えの名があった。
ここは永禄十二年(1569)北条・武田両軍の古戦場で、武田方の山県三郎兵近衛の率いる遊軍が、この道を韮尾根から下志田へひそかにかけ下り、北条方の背後にでて武田方勝利の因をつくった由緒の地と伝えられる。
江戸中期以降は、厚木・津久井を結ぶ道として、志田山塊東端の三増峠越えをしのぐ大街道となった。なお志田山の起こりは、この山が芝山であったことによるという。
愛川町教育委員会
【10時13分】 |
ちょっと後ろめたい気持ちもありつつゴルフ場の中へ。 |
【10時15分】 |
やっぱ、ゴルフ場だよな、ココ。 |
【10時17分】 |
ゴルフ場の駐車場の前を過ぎて道なりに進む。 |
【10時19分】 |
しばらくカート道を進むと途中から小高い丘の上に向かう道に逸れる。 |
【10時21分】 |
旗立て松の由来。詳細は以下。 |
愛川町指定史跡 三増〈みませ〉合戦場
旗立て松の由来永禄十二(一五六九)年十月六日、三増の山野で甲斐の武田信玄が率いる軍と小田原の北条氏康の軍とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てたと伝わる跡である。
北から西へ連なる三増の山並みを越えて、甲州に通ずる道には三増・中・志田の三峠があるが、そのうちで最も高く険しいのが中峠であった。
史書によると、信玄は相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼〈かくよく〉の陣を張り、中峠近く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻に本陣を置き、北条軍を迎え撃ったという。
往時を知らす緑の松は、小学生が五、六人でとり囲むほどの太さであった。しかし、大正十二年の失火により枯れて今はなく、ただ旗立て待つ二世と記念碑に、戦の跡をしのぶのみである。
愛川町教育委員会
【10時22分】 |
この辺から期せずして山登りになる。 |
【10時26分】 |
旗立松の丘の全景です。ゴルフ場の中にある小高い丘の上という感じです。 でもここからの眺めは絶景です(このページのタイトル画像参照)。左から、新宿の高層ビル、横浜ランドマークタワー、相模湾、少し手前を見ると、八菅山がかなり下の方に見えます。右側には相州アルプスと呼ばれる山々が見え、その間から大山の山頂も見えます。ほぼ180度の展望です。 |
【10時26分】 |
旗立松の碑があります。 |
【10時26分】 |
上の碑の右側に旗立松がっ! でもこれは2代目だそうです(残念!)。初代は焼けてしまったそうです。なんでこんな丘の上で焼けるんだ? 落雷か? |
【10時27分】 |
旗立松の解説。詳細は以下。 |
武田信玄旗立松の趾碑の解説文
右手に立っている「武田信玄旗立松の趾碑」文は、日本紋章学の権威沼田頼輔氏によるもので、概略、次のようなことが書かれています。
高峰村が津久井と接する北の境の山脈は延々と東西に広がっています。その中で最も険しいものを「中峠」と呼んでいます。くっきりと四方の展望が開け、麓の村に行き来する人馬は豆粒ほどにしか見えません。山の峰に一本の老いた松が青々と茂り、天に伸びています。里の人は、これを「武田信玄旗立松」と呼んでいます。言い伝えでは、永禄十二年十月八日、信玄が北条氏政の軍と当地で戦った折、本陣をこの峰に張り、旗をこの松の上に揚げたという由来により、こうした名所になったということです。つまり、この地こそは、信玄が足跡を印した所であって、松の樹もまた信玄の心に触れたものということができます。それから、三五〇余年を経て、松に吹く風は、今なお、その余韻を伝え、人々にその当時を偲ばせていたのですが、近年の火災により、惜しいことに、昔からかる老松をもう一度見ることはできなくなりました。
愛川町教育委員会
高松村青年団諸君は、ここに一見の価値のある史跡が空しく、消えてしまうことを惜しみ、石碑をたてて、何時までも伝えようと考え、その碑文を私(沼田頼輔)に依頼してきました。この地は私が以前からよく遊んでいた所です。老いた松の姿もなお、心に刻まれています。これまでのことを聞いて、感慨も更に切なるものがあり、よって拙さをも顧みず、この文を作りました。
昭和三年九月 中旬
沼田頼輔
高梨貞義書
【10時32分】 |
帰りもやっぱり、ゴルフ場の中を通って帰る。 |
【10時34分】 |
大山の頭だけがかすかに見える。 |
【10時47分】 |
ゴルフ場を出てしばらく車道を進むと、やっと登山道の入り口を見つけました。写真の右奥の方から歩いてきたので、ボーっと歩いていたら見逃すところです。 |
【10時49分】 |
上の写真の階段を登りきったところからだと首から下が斜面に隠れていたので、てっきり地元の人がいるのかと思ったけど、やけにこっちをじっと見てるなと思ったら、マネキンの首だけでした。ちょっとビックリしました。 |
【10時52分】 |
蜂の巣? |
【10時54分】 |
最初の斜面を登り切ると鳥居があります。ここをくぐって、奥の社の右側を廻るようにして進みます。 |
【10時57分】 |
上の写真からしばらく進むとコースは90°右に折れ、急登が始まります。 |
【10時59分】 |
急な斜面を登り切ると富士居山山頂です。登山道入り口からおよそ10分でした。 |
【11時00分】 |
富士居山(252.9m) |
【11時00分】 |
三角点があったので、いつものようにパチリ。 |
【11時01分】 |
山頂には頑丈そうな鉄の祠があります。 |
【11時01分】 |
大峰まで2.9km、向山まで2.0km。うーむ、結構あるな。ここまでがあっけなさ過ぎたんだね。 |
【11時02分】 |
鬱蒼とした雑木林の中を進む。 |
【11時06分】 |
さらに進む。 |
【11時07分】 |
山の稜線上の所々に左の写真の植物が群生していた。なんだろ? これ? アオキですね(2010年02月13日追記) |
【11時12分】 |
所々に立ったまま、枯れている木があった。 |
【11時19分】 |
2つ上の写真の植物には赤い実(?)がなっているものがある。 |
【11時24分】 |
志田・中原集落への分岐点 |
【11時32分】 |
鬱蒼とした尾根を進むと途中、左側に展望の好い場所があった。半原の町の向こうに宮ヶ瀬ダムも見えます。 |
【11時32分】 |
宮ヶ瀬ダムにズームイン! |
【11時33分】 |
あまり人が通らないせいかルート上に覆い被さる木々。 |
【11時34分】 |
キレイな青い色の実が落ちてた。なんだコレ? |
【11時36分】 |
ルート上に倒木がありますが、跨いだり、潜ったりすることもなく、右側を回り込んで先を進む。 |
【11時52分】 |
雑木林の中をひたすらまっすぐ進む。 |
【11時54分】 |
おっ! 何かの櫓がある。 |
【11時55分】 |
向山山頂に到着。向こうにも何かの鉄塔が・・・。 |
【11時55分】 |
鉄塔のすぐ下に山頂の標識が。向山(375.2m) |
【11時56分】 |
鉄塔の正体は、NHKの中継所でした。 ここの山頂は休めそうな所が無いので、休まず次へ。 |
【12時14分】 |
向山から20分程で大峰(334.5m)に到着。 |
【12時25分】 |
ここで、昼食をとろうとしたけど、ベンチもなく、下は乾いた枯葉がいっぱいで、火を使うのはちょっと怖かったので、少しだけ立ったまま休んで下山する。昼食は下山後におあずけです。 |
【12時27分】 |
枯葉が幾重にも重なってふかふかしていて気持ちがいいが、下りだと滑るのでちょっと怖かった。 |
【12時31分】 |
ルート右側に大きく崩れたような跡が・・・。 |
【12時34分】 |
すぐ下が半原の町だ! |
【12時37分】 |
途中ルートの真ん中に規則正しく竹が出ていた。 |
【12時42分】 |
あと少しで下山というところで、どう見ても民家の裏側のようなところに出てしまった。ルートを間違えたかな? と思い周りをウロウロしてみるも、それらしいルートも無いので、ルート上と思われる民家の横に人がいたので、 「ここ、通れますか?」 と訪ねたところ、無言で首を縦に振ったので、その人の脇を通り抜け、車道に出た。 |
【12時43分】 |
軽トラの向こうに入って行くのだが、これどう見ても普通の家の裏庭に入って行くようだよな。こっち側からの入山ならちょっと躊躇しちゃうよな・・・。 |
【12時47分】 |
住宅街を抜けると大通りに出る。ここの日向橋を渡ると・・・ |
【12時49分】 |
・・・半原のバス停です。 |
【12時52分】 |
あとはずーっと車道を下って行くだけ。 |
【12時53分】 |
途中神社があって、ここの脇が仏果山に向かうルートの始まりだ。仏果山まで2時間30分って標識があった。 |
【13時04分】 |
おぉ、ゴール間近の愛川橋が見えてきた。 |
【13時04分】 |
愛川橋の上流側に大きな山崩れの跡が・・・。 |
【13時05分】 |
愛川橋を渡ると・・・ |
【13時07分】 |
・・・ゴールです。ハラヘッタ! |
【13時08分】 |
ゴールして車に乗り込もうとしたら、あぁ! なんだこれ? いつ付いたんだ??? 良く考えてみたら、上の写真を撮るときに枯れ草の中に入って行ったのだが、どうやらその時付いたようだ。くっそー、こいつがなかなか取れないいんだよな・・・。 |