《前半》は小仏峠まででしたが、ここからがこの日の最大の目的である謎の墓石群とのご対面となります。
詳しい話は本編を読んで頂くとして、今回(後編)の見所としては、目的の墓石群とは別に、いくつかの新しい発見がありました。
正直に言って、ここの来るまでに、ある程度の仮説を立てていたのですが、その仮説はいい意味でことごとく裏切られ、さらに謎は深まりました。
山行データ
山行日 | 2020年12月26日(土) | ||
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コース | 相模湖駅付近のコインパーキング〜底沢バス停〜登山口〜小仏峠〜謎の墓石群〜景信山〜謎の墓石群〜小仏峠〜登山口〜底沢バス停〜相模湖駅付近のコインパーキング | ||
山 名 | 景信山(727m) | タ グ | |
山 域 | 高尾エリア | 累積標高 | (+−)1,189m |
歩行距離 | 15.52km | 所要時間 | 5時間23分 |
関連記事 | 【登山】小仏峠の謎の墓石群と景信山登山《前編》 【登山】小仏峠の謎の墓石群と景信山登山《後編》 |
マップ
高低グラフ
画像貼り付け山行記録
それは、小仏峠をスタートしてすぐ、距離にして数十メートル進んだところにありました。
おっ! ここだ、ここだ。
あらかじめ、謎の墓石群の場所はフォロワーさんのブログで確認していたので、小仏峠を出発してからずっと右側の斜面を気にしながら歩いていた。すると、なるほど登山道から3メートルくらい下に石碑が見える。 登山道から撮ったこの写真でもわずかに石碑の頭が見えています。
早速、登山道を外れて謎の石碑に近づいてみる。かなりの数があるなぁ。
いくつかの謎の石碑を見てみる。
何か文字が彫られている。下の方は埋もれていて見えない。
こっちも半分くらい埋まっている。
こっちには3基。
こっちにもある。
うおっ!
欠けた頭部が辺りに落ちていないか辺りを探したけど、見つからなかった。誰かがいたずらでやったとも思えないし、自然に割れたんだろうけど、痛々しすぎる・・・。
文字をよく見ると、フォロワーさんの指摘していた通り、お墓ですね。しかし、家紋付きのお墓って、それほど低い身分の人ではないよね。
しかも、男女の戒名が書かれているので、男女で埋葬されているんですかね?
裏には『安政 三丙辰正月廿六(この後は判読不能)』
それと土台の部分には写真ではちょっと見にくいけど『峰尾氏』と右からか掘られていますね。
そして、再び裏をみると『俗名 源七』とある。
ここで、あれ? と気付きました。フォロワーさんのブログで見ていたものと違うぞ?
周りを見渡してみても、見覚えのある石碑は無い。ここじゃ無い? のか?
一度、登山道に戻って、そこから少し景信山方向に進んでみる。あっ! こっちにも石碑がある。
フォロワーさんは目印を付けてくれていたようですが、そのようなものは有りませんでした無くなっていますね。しかし、右下に石碑が見えます。
フォロワーさんのブログに出ていたのはこっちですね。じゃあ、先程のはなんだったんだろう?
コレコレ、見覚えがある。
そうそう、コレコレ。
こちらは倒れているものが多いですね。
下にある石は土台で、上の墓石がそこに乗っていたのだと思います。
それにても、フォロワーさんに教えていただいたお墓の他にも10基近くあったっていうことは、当初想像していた範囲より、ずっと広い可能性が出てきましたね。
墓石群があるところは、かなり不明瞭だけど、テラス状になっている。そのテラス状の端を見極めようと思ったけど、よくわからない。そもそも、墓石を設置した時期の地面に比べて、現在は土が堆積して20〜30センチ上がっている。当時の地面まで掘り下げれば、もう少し分かることもあるんだろうけど、そんなことは、人道的にも、法律的にも出来ない。出来る事といえば落ち葉を退ける事くらいだろう。
これは仮説を立てるにしろ、一回だけ来てどうにかなるもんじゃ無い。なので、今回は墓石そのものよりも、一番気になっていた、ここの地形をよく観察しようと思う。
まずは、墓石群があるテラスより谷側(下側)を見る。特に変わったところは無さそうだけど、もしかして、ここにも何かあるんじゃね? と言うバイアスがかかった目で見ると、この下にもテラスのようなものがあるようにも見える。まぁ、気のせいだと思うけど・・・。
そもそも100年前と今ではかなり地形も変わっているでしょう。
再び登山道に戻って今度は登山道の左側によじ登ります。
うむ、特に気になるものは無いな〜。でも、墓石を建てるのなら、こっちの方が良さそうだけど・・・。なぜ、あの場所だったんだろう・・・。
あっ? 道がある。今現在歩かれている登山道の西側にもう一本の登山道がある。
ちょっと細いけど、しっかり踏み跡がある。これは、ショートカットルートなのか? サブルートなのか? とにかくメインルートには接続しているようだ。次回はこっちを歩いてみよう。
墓石群のあった斜面とは反対側の斜面。こっちは傾斜も急なので、何かがあるとは思えない。
とりあえず、メインルートに戻って景信山方面に歩きながら墓石群のあった斜面を観察してみる。
一度ここで、墓石群の位置関係を整理します。下のイラストは概略図ですが、記憶を頼りに書いたのでかなりいい加減で、縮尺等は全く無視しています。そして、下手なのは気にしないで下さい。恐らくそれは気のせいです・・・(^_^;;;)
まず、小仏峠から出ている4本の青い線が登山道です。今回は左下の相模湖方面から来て景信山に向かっています。サブルートと書かれたルートがどこにも繋がっていないのは、単純に未確認だからです。恐らくメインルートに繋がっていると思います。
で、墓石群ですが、まず、フォロワーさんの情報の場所はA群と呼ぶことにします。そして、今回この手前(小仏峠側)にも墓石群が見つかったので、そこをB群と呼びます。僕が最初に間違って見つけた場所です。
縮尺がいい加減ですが、小仏峠からA群までは100mも無いと思います。
そして、さらに小仏峠側にC群と書かれていますが、ここは下山時にもう一度寄った時に見つけました。詳細は後述します。
なので、ここの尾根の突端に3箇所の墓石群があることになります。もしかしたら、以前はこの3箇所は繋がっていたのかもしれませんが、現在はヤブで区切られています。
B群、A群と確認して、それがある地形をある程度把握したので、まだ、時間(11:30)も早いし、景信山に寄ることにしました。
山頂の少し手前で、展望の良いところがありました。
おっ! 何かにぎやかになった。
山頂到着。
山頂には20人近くの人がいました。やはり、人気の山ですね。
小仏城山に売店があるのは知っていましたが、ここにもあるのを知りませんでした。なんの下調べもしていませんでした・・・。
とりあえず、バッジを購入。
それにしてもここの売店、いろいろと食べるものがあるんですね、たくさんの人が頼んでいました。
これだったら、昼食はここで食べればよかった・・・。
まぁ、下調べをしていなかった自分がいけないのですが、今日もラーメンです・・・
・・・しかも、具なし・・・。
今朝コンビニに寄った時にカット野菜とか半熟玉子を買おうと思っていたんですが、すっかり忘れてしまった。
具具具具具・・・。
昼食を食べ終えて、下山開始です。
ふと、先程の墓石群で確認しておきたいことが、頭をよぎったので、さっさと下ります。
景信山山頂から一気に下って20分ほどでA群のところまで来ました。
ここがA群全景です。
あっ? さっきは気が付かなかった石碑がもう1基ありました。『明治十二年〜』とあるので、この辺りではかなり新しいものですね。右側に『玉露』の文字が見えます。なんでしょうね?
それにしても、このお地蔵さんは手にドラクエのスライムみたいなものを持っていますね。
んで、山頂で確認しておきたいと思ったことが、A群から登山道に上がらずに、そのまま水平に移動してB群に行けるか? もし行けた場合その高低差はどのくらいあるのか確認しておきたかった。
それには、A群とB群の間にあるヤブを越えなければならない。この時期だから比較的歩きやすいと思うけど、夏場はけっこう大変そうだ。
ヤブを突き抜けたら、やっぱり、ほぼ同じ高さにB群がある。まぁ、厳密に言うと、尾根が傾斜しているので、それと同じように少し低くなっているとは思うけど、登山道に対してはほぼ平行だ。つまり、A群もB群も登山道からの位置(高さ)はほぼ同じになる。
これで、A群とB群がもしかしたら、同じテラス上にあった可能性が出てくる。だから、何だ? なんですが、今はそれ以上のことはわかりません。
んで、さらにB群からそのまま平行移動してみたら、墓石群とはちょっと違うけど、2基の石碑があった。
ひとつは『南無阿弥陀仏』と書かれた石碑。
一度途中で折れた跡があります。
そして、もうひとつは、初めはただの石ころかと思ったけど、よく見たら、山中にある山の神で石の社(やしろ)をみたことがあると思いますが、あれの、屋根の部分が崩壊しているものがありました。こちらは文字の確認は出来ませんでした。
ここをC群と呼びます。なので、C群はこの2基だけですね。
ちなみに登山道から『南無阿弥陀仏』の石碑の頭が少し見えますが、ここはA群、B群とは違って登山道から見上げる位置にあります。そこにそれがあると分かっていない限り、登山道上から偶然に見つける可能性はかなり低いです。なので、ここを知っている人はB群の延長線上で見つけたのだと思います。
ちなみに墓石の向いている方向を確認しました。
A群、B群は多少のバラツキはありますが、全体的に東南方向を向いています。それに対してC群はほぼ南を向いています。これは方角的な意味よりも、単純に尾根の斜面に対して真下方向を向いています。C群も尾根の突端付近なので、すぐ下にある小仏峠方面を向いているのだと思います。
さらにC群の位置から小仏峠方向に向かってみます。
尾根の突端まで来ると小仏峠が見えます。すぐ下はお地蔵さんがあるところです。
そこから更に進むと、小仏峠まで下れる薄い踏み跡を見つけました。つまり、小仏峠から登山道を通らずにA群まで行けるルートがあるってことですね。もしかして、昔は現在の登山道とは違うルートがだったのかもしれませんね。
この薄い踏み跡を通って小仏峠に下りようと思ったけど、変なところから出てきて峠にいる人を驚かせるのもなんなんで、素直に戻って、登山道から小仏峠に向かいます。
その小仏峠に出る直前に、左側に大きな岩の塊があることに気が付きました。
一部、えぐれているところもあるので、もしかしたら峠の建物の基石等にここの岩を切り出していたのかもしれませんね。もしかしたら、墓石も・・・?
とりあえず、今回は全体的な地形の把握をしました。墓石に彫られている文字の解説解析は次の機会にしたいと思います。と言うもの、僕自身、江戸時代の墓石の知識はほぼゼロです。なので、もう少し勉強してから出直すことにします。
となれば、色々と調べ物もしたいので、さっさと帰ります。
小仏城山にも寄って行こうかとも考えましたが、こっちは何度か登っているので、今回はパスです。
登って来るときには木の陰になって全然気が付きませんでしたが、小仏峠を出てすぐのところにこんな物がありました。
来るときにも見た奇木です。角度を変えるとまた違って見えますね。
鉄塔通過〜。
登山口に出た。
水場で手と顔を洗いました。
国道20号線に合流です。ここを右に曲がってあとは道なりですね。
小仏峠から1時間10分ほどでゴール。
今回のまとめ
今回の山行は、Twitterのフォローワーさんから教えて頂いた事が始まりになっています。その時は、まだ情報が少なく、僕自身まだ小仏峠に行ったことがなかったので、現場の状況がまったく分かりませんでした。
なので、墓石群がどこにどのようにあるのかは分かりませんでした。
それと、フォローワーさんがブログで紹介していたA群は、倒れている墓石が多く、もしかして、本来は他の地にあったものを何らかの理由(小屋の基石や登山道の階段等に使う)で、ここに移動して、余った石をここに廃棄しているのでは? とも考えましたが、実際に見てみると、そうではなさそうだと思いました。しかし、だからといって、ここが墓地だったとも考えづらいです。
実際に現場を見てみて、疑問に思ったこともたくさんあります。例えば、そもそもなんでここに? っていうこともありますし、なんで登山道に対して背を向けているのか? なんでもっと楽に設置できる小仏峠に置かなかったのか? 等々、疑問は次から次へと出てきます。それと年代に幅が有りすぎます。以下が、墓石から読めた(間違っている箇所もあるかもしれませんが)元号の一覧です。
・寛永(1624)
・亨保(1716)
・元文(1736)
・天明(1781)
・文政(1818)
・天保(1831)
・嘉永(1848)
・安政(1855)
・明治(1872)
年代順に並べています。カッコ内はその元号の元年の西暦です。ざっと、400年前まで遡れます。400年間あそこにあったとは考えづらいですね。もし、400年間あそこが墓地だったとしたら、墓石が少なすぎます。
墓石をよく見ると、元号こそ古いけど、後年に作られたようなものもあります。なんらかの理由で墓地は別にあるけど、供養のために、後年になって仮の墓石をここに建てたとか・・・? いろいろな想像が出来ます。
正直言って今はまだ何がなんだか分からないというのが本音です。そもそも僕自身、昔のお墓に関しての知識はほぼゼロです。これから勉強していきたいと思っています。
まぁ、これだけの量の墓石があるので、誰にも知られていないことは考えなれないですよね。例えば、ここを管轄する教育委員会とかの関係組織に問い合わせれば、一発で答えが得られるかもしれません。でも、それじゃ、面白くないので、どこまで自力で調べられるかやってみようと思います。
とりあえず、次は各墓石の文字の解析ですね。出来れば、それぞれの墓石の位置関係のマップも作ってみたいですね。まぁ、完成はいつになるかわからないですが、気長にやりましょう・・・。
おまけ
今回の墓石群は登山道からそれほど離れていなくて、登山道から見下ろせばそこに人がいるのは丸見えです。この日は人も多く、墓石群を調べている時だけでも、20〜30人の人が通り過ぎていったと思います。きっと、そのとき、
「あの赤いジャケット着たおっさんは、あそこで何をやっているんだろう?」
と疑問に思われた方は多かったと思います。そうです、あれは僕でした。正直言って僕もとても恥ずかしかったのですが、墓石の方への興味がそれを少し上回っていたようです。後半は完全に開き直って、墓石と向き合っていました。
今後も何度かあそこに通うことになると思います。もし、見かけても、それは森の妖精さんだと思ってスルーして頂けると幸いですwww